〜年の瀬に想った飛躍駄文・『機会』〜

この文章は相当の私見走り書きです(前向き話ですが)。また、音楽の話でもありません。ご興味ある方のみどうぞ。




〜年の瀬に想った飛躍駄文・『機会』〜


動物たちの「直感」


先日のスマトラ島沖地震において、被害に遭われた方々に謹んでお悔やみ申し上げます。
そして、そんな中、関連したニュースのひとつに…こんな内容のものがありました。


津波受けたスリランカの国立公園、動物の死がい見つからず

コロンボ 29日 ロイター] スマトラ島沖地震に伴う津波の被害を受けたスリランカ南東部のヤラ国立公園では、野生動物の死がいが発見されておらず、関係者を驚かせている。  同国最大の鳥獣保護区である同国立公園には、ヒョウや数百頭の野生のゾウが生息しており、今回の津波では、沿岸から3キロ内の公園が洪水状態になった。  ところが奇妙なことに、ゾウはおろか、野ウサギの死がいもまだ発見されていない。  政府の野生動物保護の担当官は、「動物には天災を感知する能力があり、第六感で異変が起きる時を知るのだろう」とコメントしている。  ヤラ国立公園では、日本人を含む少なくとも40人の観光客が被災した。

『動物たちの感覚は我々にはまだ測り知れないものがある』
…という見解がまず出来るかと思いますが、
また一方で、
『僕らは日頃、“人間だって動物なんだ”という当たり前の事を忘れがちだ』
という事柄も何処か暗示している出来事なのではないか、と僕は感じてしまいました。


ヒョウやゾウに出来て、人には出来ない…出来なくなってしまった事もあるのでは、と。


 *

何か物事が起きてしまった後になって、
「あれが予兆だったのかな?」と〜振り返れば思える事は無いでしょうか?


「知識」や「知己」、「経験」等も〜生活していく上で-もちろん大事な事ですが、
時に〜「感覚」や「感性」、そして「直感」などが、正しい道を導く場合もあります。
今回の自然災害のような大きな問題のみでなく、
日頃の何気ない暮らしの中で、小さな事柄でも〜そんな事を考える機会があると思います。
我々人間だって動物なんです。


個人的には、ここ最近でも〜いくつかそんな「直感」を感じる出来事がありました。
事故を回避出来たもの、別の場所で起きたもの、後で気付いたもの、と様々ですが。
そしてそんな「直感」の形は、人それぞれ(動物それぞれ)異なるのかも知れません。


また、そんな「直感」を感じる“機会”に関して、
時にある種の人々は、「神の存在」として認知する場合もあります。
それが「神」なのか「直感」なのか、僕には解りません。
それは本当に人それぞれですし場合や状況にもよるし、否定も肯定も行い得ません。
そしてそれぞれの「感じたこと」が、正しいか過ちかも、もちろん解りません。


ただ、そこには、
何かを感じた人には…「何かしらの“機会”があった」という事実だけは、
間違い無く、確かにきっとあったのでしょう。


僕自身は特定の“信仰”というものは持ってはいないのですが、
“機会”というものは、非常に意味深く感じたりしています。
僕の中で、“機会”は相当…大事です。良い事柄も、悪い事柄も。


とあるタランティーノの映画に…だいたいこんな趣旨のセリフがありました。


『神が本当にそこに居たかどうかの現象はどうでもいい。
 問題は、オレが“神の存在を感じた”という事なんだ。』



 *

“機会”をどう捉えるかの為の「感性」を磨くという事は、
ある意味「知識」や「知己」より本当は大変な事なのかも知れません。
目に簡単に見えるものでも無いでしょうし。
また、もちろん、「“機会”を見送る」「“機会”を見逃す」という場合もありますしね。
そしてまた、そんな“機会”を、
「神」と捉えるか-「直感」と捉えるか、または単に「見送る」か…も、人それぞれ。
しかし-もちろん、
「感性」や「直感」という言葉に簡単に頼るのは危険な場合もあります。
『私は感性に生きる』と簡単に口走る人が…本当に「感性」を磨いてた試しは無いですし。


端から見て、「この人の感性は本当にすごい」という人が〜ごくごく稀に居ますが、
それ以外の〜僕を含めた殆どの人は、常に相当努力しないと流されてしまうもの。
我々が「感性」や「直感」を磨くという形に一番近いと思えるものは、
出来事から得た“機会”を“活かそうと考える事”ではないかと僕は思っています。
“経験”を重ねるという事も大事でしょうが、
“機会”を“活かそうと考える事”が出来ていなければ…経験重ねても何度も繰り返すはず。


それに“経験”という意味では〜人が20年も生きてくれば、
“機会”を活かす為の“経験”は、本来すでに、皆充分ベテランと言っていい筈です。
若くして『出来ている人』も〜いい大人でも『出来てない人』も存在するという事自体、
“機会を活かす事”自体の“問題意識の有無”が影響していると考えるのが自然でしょう。
例えば“機転を効かせる”等の行為は“経験”より“発想”が物を言う場合も多い筈ですし。


ヒョウやゾウに出来て、人には出来ない…出来なくなってしまった事もあるのでしょうが、
ヒョウやゾウに出来なくて、人には出来る事のひとつが“機会を活かす事”なのでしょう。

出来事から「チャンス」や「サイン」、「ヒント」を見い出す事が出来ないという事は、
殆どの人は「感性」も「直感」も本当には磨けず、
自分の枠の中のはかりで判断し…何度でも“機会”を見逃せる人になるという事でしょう。


問題となった出来事や問題となった人物はすべて、何かしら「残したもの」がある筈です。
「良い影響」、「悪い影響」もあれば、そこからの「反省」、「教訓」など、
出来事が起きれば-そこには、何らかの“機会”と成り得るに充分な要素があるものです。

ある意味、すべての出来事は、「“機会”を見逃がさない為の事柄」と捉える見方も出来、
問題となった人物が存在するのであれば〜
その人は「“機会”を見逃がさない為の役割を演じてくれた」と解釈出来る場合もあります。
どんな出来事も何かを物語っており、それを考察できる“機会”を与えてくれたのだとも。
僕は…特に、悲しい出来事が起きるたび、そんな風に考えたりしています。


僕の中で「感性」を磨くという事は-「“機会”を見逃がさない」という事だと思っています。
「起きた事柄から何か得るか、得ないか」。
それが「感性」を磨くという事に最も繋がるのではないかと、日に日に思えて来ています。
“機会”を見逃がさないで-どういう見方をするか-どれだけの種類の見方が想起し得るのか。
人によっては「下らない事」かも知れませんが、こんな所に「ヒント」があると僕は思います。


これだけ情報が溢れている現代に於いて、
ある意味、「“機会”の見い出し方/見逃がし方が…その人を創る」とも僕は感じています。
そして、そんな“機会”は、きっとそこらじゅうに転がっているものなのでしょう。
美術、本、映画、そして音楽。
何気ないあなたの部屋の中で、街中で、自然の中で、人、動物、植物…。
「道端の石ころの形」だって…時には充分、“機会”と成り得るのです。




そして、もちろん、
この『“機会”についての駄文』自体も、このサイト自体も…実は、
あらかじめ〜何らかの“機会”と成り得るものとして意図されて作ってみているのです。
この文は(すでにお気付きの方もいらっしゃると思いますが)、
「“機会”という内容」について、
「“機会”として提示してみせている」という、一種、ヤバイ種類の文でもあるのです。


あなたは〜この文を、今、確かに、まもなく読み終えようとしています。
この文を、「音楽についての話」と捉えて頂いても〜
「Netについての話」「思考についての話」「人についての話」と捉えて頂いても構いません。


せっかくここまで読んで頂いたので〜この内容を「流して」お捉えにならずに、
『あなたが出会う数千万の“機会”のひとつ』としてお捉えください。
そして『この文をここに記した意図』も、よろしければ考えてみてください。
「道端の石ころの形」だって…時には“機会”と成り得るのですから、ね。




先に挙げた〜タランティーノの映画のセリフを-
少し“もじって”みて〜この『“機会”についての駄文』を締めてみたいと思います。


『神が本当にそこに居たかどうかの現象はどうでもいい。
 問題は、オレが“機会を感じた”という事なんだ。』







〜過去に僕が出会った、“機会を活かす事を見逃がし続けた人々”に捧ぐ〜


          = 年の瀬に想った飛躍駄文・『機会』=