The Godfather of Soul サブちゃん



リアル「“与作”化」北島三郎と、オリジネイター論。
http://news.goo.ne.jp/news/sanspo/geino/20050118/120050118011.html


日本のジェームス・ブラウン説も飛び交う中(笑)、今〜北島三郎が注目だ。
パチンコ台にもなって〜、「祭」が進行中なのかも知れません。


ところで、最近気になって仕方ないのですが〜、


北島三郎は、演歌なのか?』


思い起こせば〜「与作」といい「祭」といい、
あの永谷園の“お茶漬け”ソング「函館の女」にしても、
バリバリの“日本の唄”には違いないのですが〜
よくある“演歌”のパターンとは違う。


僕はまったく自分から演歌は聴かない素人なのですが、
その世界の印象としてある〜“ジメジメ/ウジウジした感覚”が北島三郎には皆無で、
男気だったりカラッとしてたりという、“男の世界”が全開な気がします。
先日もそんな話を深夜のファミレスでしてて、
『何でオレが北島三郎について熱く語ってるんだ?』ってナゾだったんですが(笑)。


今、北島三郎が「祭」だ。 …本当か?(笑)


熱くさせる何かを持っているという事は、確かなのでしょう。
そう、あと先日TVで見た〜
水前寺清子にしても〜“演歌のウジウジ”さとは無縁だったなぁ。
僕の好きな宍戸錠なんかの「日活映画」に通じる〜“いかがわしさ”と“ポップさ”がある。
北島三郎水前寺清子も〜
“演歌”という枠組みよりも“歌謡曲”として捉えるべきなのかもな、とも思いました。


そして、こんなところにも〜“演歌衰退”の本質が見えて来るような気がします。
“一般的な演歌概念”のパターンの範疇での〜
“演歌的言葉”や“演歌的メロディー”のパクリまくりを、
延々と繰り返した結果なのだと思います。


ある意味、
“演歌”の大御所と言われる人が“一般的〜演歌の概念”とは違う事もあるという感じ。
まるで、ボブ・マーリージミー・クリフが、
実は“一般的〜レゲエの概念”から大きく“はみだすモノ”を内服しているように。
彼らの本質や志したものは、“レゲエ”というより〜本来“ソウル”だと思いますから。




こうした、どこか枠組みから“はみだすモノ”が〜
“ポップさ”となり、“個性”を形創るモノなんだろうと思います。
そしてそんな“はみだす”モノが無ければ〜オリジネイターとは成り得ないのかな、とも。


ジェームス・ブラウンにしろ、チャック・ベリーにしろ、ザ・フーにしろ、
マジなんだけど〜どこか“はみだすモノ”があって〜
“いかがわしさ”と“ポップさ”があって、そしてどこか…確実に“可笑しい”。


そしてそれをマネする人は〜部分や表層だけマネやパクリをして、
影響受ける人は“ポップさ”や“可笑しさ”の深層を感じ取り、自分の世界観に反映させる。


とっつき易いのは前者かも知れませんが、後に残るのは後者。


そして日本のエンターティメントの世界では、
前者ばかりを…もてはやした影響で〜、
今や“携帯代”に個人出費の重要度で負け…売り上げが劇的に落ちる事態となっています。
ある意味、業界側の自業自得です。
嘆いたり他者のせいにしたり値上げしたりコピーガードしてる場合ではありません。
本質や核心が違うのです。
実のあるものを創らないと。実のあるものをきちんと売って行かないと。
ユーザーをナメて操った結果〜
ユーザーの質を落として、あげく携帯代に負けているのですから。




表層を追う者は〜流され続け、
深層を追う者は〜やがて独自の世界観を構築させる。
様々な影響を自分なりに咀嚼した結果〜新しい視点を得る者もいる。
送る側も、受ける側も同じなのです。
誰もが、生活の中では〜送る側にも受ける側にもなるのですから。


そして、オリジネイターが残る。